
三門は、連歌師宗長(そうちょう)の寄進で、享禄2年(1529)に下層のみが竣工し、天正17年(1589)、千利休が上層(二階)を完成させたそうです。この上層部分を金毛閣というのだそうです。なぜ利休は、自分の木造を二階に安置したのか・・・う~ん、興味深いですね。

天下人・秀吉さえも、この門を通る時は、利休の下をくぐることになります。そりゃ、怒るわな。秀吉は利休に切腹を申し付けます。利休はんは、そうなることを読んで、そうしたのでしょうか、そうだろうなぁ。

秀吉は、織田信長の葬儀を、利休の推挙により大徳寺で挙行したそうな。七日間にわたる大葬礼を取り仕切ることで、信長亡き後の天下人をアピールしました。そのことは、同時に大徳寺に対する、武士の尊宗を一気に高めることとなり、大徳寺に塔頭寺院をもつことは、戦国武将のステータスシンボルになったそうです。どうりで多い訳です。

そこで、利休はんですが、すでに秀吉の政(まつりごと)に大きく関わっていて、大友宗麟が大坂城を訪れた際、豊臣秀長(秀吉実弟)から「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちされたという逸話が残ってます。利休の失脚を望む勢力もまた存在したようです。ちなみに宗易(そうえき)とは利休のことで、利休と名乗ったのは、最晩年のことだったのだそうです。

茶人としても絶頂にあった利休、大名にも多くの弟子をもち、前田利家、利休七哲のうち古田織部、細川忠興らの助命嘆願もむなしく、 天正19年2月28日(1591)、聚楽屋敷内で切腹したのでした。
ところで、利休はんは、茶菓子として、あぶり餅を食べた(と思われる)わけですが、一和さんのですね^^;
次回も大徳寺です。
【千利休】
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