それでは、詩仙堂のご案内。内庭から見た外観です。でもって、詩仙の間、あ、そこ、そこ、その真ん中へん。え、どこ?暗くて何も写ってないじゃん・・・ひ~、ここは撮影禁止なのでした。ううう、撮らせてくりぃ。この詩仙の間、狭いです。四畳半位でしょうか。でも、素晴らしいです。
詩仙堂の由来は、中国の詩家三十六人の肖像画に、丈山が各詩人の詩を書き、四方の壁に掛け、詩仙の間と呼んだことによるそうです。肖像画を描いたのは、おぉ、なんと狩野探幽、すごっ。極上のコラボやないか。琳派ファンとしては、本阿弥光悦と俵屋宗達の極上コンビを思い出してしまいます。
う~ん、味わい深いのぉ。
丈山は、この嘯月楼で漢詩を詠い、お酒を飲み、東山に浮かぶ月を眺めたそうです。ところで、ここ見晴台みたいやな。見晴台といえば、丈山には、皇室スパイ説や徳川方皇室見張番説などもあるそうです。なんや謎めいて、かっちょええわ~。
嘯月楼からの眺めはいかに。この書斎前の景色の上・・・一度は観てみたい^^;
次回は、詩仙堂の最終回。下のお庭へまいります。
【狩野探幽】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
狩野 探幽(かのう たんゆう、 慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代の絵師。京都生まれ。 狩野永徳の孫にあたる。探幽は江戸時代の狩野派を代表する絵師。名は守信。早熟の天才肌の画家で、11歳のとき、駿府で徳川家康に謁見。15歳にして将軍の御用絵師となる。探幽は江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作している。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。また、自らが目にした古今の名画を縮図として模写しており、それらは「探幽縮図」と呼ばれて、現在まで膨大な量が残っている。「探幽縮図」は、歴史資料、絵画資料としてもまことに貴重なものとなっている。以上のように名実ともに江戸時代を代表する画家であった探幽は、近代に入って不当に低い評価を与えられていたが、近年、その真価が再評価されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%8E%A2%E5%B9%BD